「ならぬことはならぬもの」 裁縫よりも家芸の砲術 男まさりな幼少期
嘉永6(1853)年、黒船の来航により事実上の開国に追い込まれ、幕府の権力が徐々に失われつつあった江戸末期。そこからさかのぼること8年前の弘化2(1845)年、新島八重は会津藩の砲術師範であった山本権八(ごんぱち)・佐久夫妻の子として、現在の会津若松市に生を受けます。
幼少期から非常に活発で、男まさりな性格でした。会津武士の子は6歳から10歳までの4年間、町を幾つかに地域割した「什」というグループを作っていました。階級差別はなく、"什の誓ひ"(子弟教育7カ条)が会津の人材育成の指針。「ならぬことはならぬもの」という理屈ではない強い教えのもと、八重は、会津の女として育っていきます。
裁縫よりも家芸の砲術に興味を示し、特に実兄の覚馬(かくま)からは洋式砲術の操作法を学びました。
スペンサー銃を持って銃撃戦に参戦「幕末のジャンヌ・ダルク」
慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦いで幕府軍は破れ、会津藩は薩摩藩・長州藩らを中核とする新政府軍から『逆賊』として扱われます。新政府軍の攻撃は、日を追うごとに激しさを増していきます。戦火は会津各地そして鶴ヶ城にも広がります。鶴ヶ城での籠城戦で戦う会津軍と新政府軍との力の差は歴然でした。
女や子供を含め、多くの仲間が次々と死んでいく中、八重は髪を断ち、男装。スペンサー銃を持って銃撃戦に参加します。最後まで奮戦した八重でしたが、会津戦争の敗北を自らの中で受け入れていきます。このような姿から後に『幕末のジャンヌ・ダルク』とも呼ばれるようにりました。
ちなみに、飯盛山で自刃した白虎隊の一員であった伊東悌次郎に操銃を指南したのは、銃術に心得のあった八重でした。
鉄砲から知識へ 新島襄の最大の理解者に
会津藩の敗戦から3年後の明治4(1871)年、全てを失った26歳の八重は、京都府顧問となっていた覚馬を頼って京都へ。そこで『鉄砲』に別れを告げ、『知識』という新たな生きがいを得ます。鉄砲から知識へ。会津のプライドを貫く八重は、京都でも存在感を増します。同じ頃、覚馬の元に出入りしていた、アメリカで西洋文化に触れた青年・新島襄(同志社創立者)と出会い、結婚します。
封建的な風潮の残る中、男女の平等を望む八重は、西洋帰りの夫を『ジョー』と呼び捨てに。また夫よりも先に車に乗る姿を人々に『悪妻』と罵られても、八重はまるで気にしませんでした。夫の襄はそんな彼女の生きざまを『ハンサムウーマン』と称しました。
日本のナイチンゲールへ
会津戦争の原風景が残る八重たちは日清、日露戦争が起こると、仲間とともに篤志看護婦として名乗りをあげます。戦場に女が行くなど考えられなかった時代、「弱者はいたわらなければならぬ」の会津の教えから、八重たちは果敢に行動します。八重たちは女性で初めて藍綬褒章を授かります。
新島八重年表
| 年号(西暦) | 出来事 |
|---|---|
| 弘化2年(1845年) | 会津藩(現在の会津若松市)で父・山本権八、母・佐久の間に生まれる。 |
| 嘉永6年(1853年) | ※黒船来航 |
| 慶應元年(1865年) | 川崎尚之助と結婚。のち戊辰戦争の最中に離縁。 |
| 慶應3年(1867年) | ※大政奉還 |
| 慶應4年(1868年) | 戊辰戦争
1月:鳥羽・伏見の戦い。兄・覚馬が薩長連合軍に捕らえられる。 |
| 明治2年 (1869年) | 覚馬が京都府の顧問に就任。 |
| 明治4年 (1871年) | 覚馬を頼って、母・佐久、姪・峰と共に京都へ。 |
| 明治8年 (1875年) | 新島襄と婚約。同年、同志社英学校開校。(写真提供:同志社大学) |
| 明治9年 (1876年) | 洗礼を受け、襄とクリスチャンの結婚式を行う(京都初)。襄32歳、八重30歳。 |
| 明治23年 (1890年) | 夫・襄が永眠。 |
| 明治23年 (1890年) | 日本赤十字社正社員になる。以後奉仕作業に勤しむ。 |
| 明治28年 (1895年) | 日清戦争の従軍記章を受け取る。 |
| 明治38年 (1905年) | 日露戦争で篤志看護婦として従軍。 |
| 昭和3年(1928年) | 昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を下賜される。 |
| 昭和7年 (1932年) | 急性胆のう炎のため自宅で永眠。享年87歳。 |