新島八重のエピソード

女学生を見ると無言で傘を差し出す

 晩年、傘を持たず雨に濡れている女学生を見ると、黙って傘を差し出す姿が、しょっちゅう見られたといいいます。
真夏の炎天下でも、日傘を差し出していたそうです。日本が発展してゆくためには、次代を担う女性が必須だと確信していて、女学生を大切に思っていたのだそうです。
 進歩的で信念を貫き通した会津魂を持った八重は、男勝りと誤解されていますが、本性は心やさしい女性でした。過酷な人生が、本質を隠してしまっていたのでしょう。

夫襄との夫婦仲の良さ

 夫襄との夫婦仲の良さを物語るエピソードが残されています。
京都新島旧邸にある襄の書斎は襄が亡くなった後、八重が死ぬまでの42年間そのままの状態にしてありました。

悪妻と呼ばれる

 夫をジョーと呼び捨てにし、車にも夫より先に乗っていました。これは新島夫妻が互いの尊重の上で、男女が等しく平等であるという姿勢を自ら世に示したものですが、男尊女卑の明治時代においては世間からは「悪妻」と評されてしまいました。

鵺(ぬえ)と呼ばれる

同志社英学校の生徒にも新島先生を軽んじていると映り、当時学生の徳富蘇峰に「鵺」と罵倒されたエピソードがあります。

烈婦

 勤務していた京都女紅場が経営難に陥った際に、女学校の補助金を増やすよう当時京都府参事であった槇村正直にたびたび直談判し、世間より「烈婦」と評されました。